2014年2月27日木曜日

方法は別になんでもいんだが、そろそろ下山します






susquatch以外でもね






サイクルを回すにはやはり体を動かすのが一番いい







あれこれ考えたあとは








あれこれ考えないではっちゃけるのがいい







あー、とりあえずあそぼー










しかし今日はほんとに



小春日和であった





明日は雨らしいが














2014年2月25日火曜日

春っぽかったなー東京



なんだかこうやって、少しずつ春に近づいて行くんだっけなーそういや、なんて思った暖かい日差しの一日となりました本日の東京でした









susquatchからも、春のお知らせがあります









3月の頭くらいに








2014年2月22日土曜日

170万の署名じゃねーよ爆




スポーツってそういうことじゃねーだろ爆






さすがに吹いたわ笑



2014年2月20日木曜日

今日は今日とて



やる事山積みである




色々なやり取りをしなければならない




それとは別に運動もしたい




体がなまっているのが体感でわかる




まあ色々あるが、夜はラーメンでも作ろう




来週から暖かくなるようで嬉しい





ここ1年ほど、毎日、目黒川沿いの桜並木におはようの挨拶を欠かした事が無いので




今年の春はたいそう見事な花を咲かせてくれるに違いない




雨の日の彼らも、雪の日の彼らも知っているので、自分の目には殊更感慨をもって映す事が出来る




そういうつもりで始めた「おはよう」の習慣だが




そんな他愛もないことでも、毎日やっていくと、樹々も徐々に自分の中では”ただの樹々”では無くなってくる




どういう事かというと、擬人化してくる




最終的には、今までは樹々を”モノ”としてしか見ていなかった自分に気付く





確かに”モノ”と言われたらそうかもしれない




それらの基準は客観的な世界にはない





そもそも客観的な世界など、あるように見えて実はどこにもない





だから俺は、もう樹々も、別のモノとしては分けない事にした、今まで死んだ家族や仲間を分けないで来たそれと同じ方法論である





そういう方法のほうが、俺は俺の、あくまで自分の主観だけでしか捉えられない”この世界”を生きやすい





生きやすくなった俺のうみ出す様々な産物は、図らずも俺にとっては新しいものばかりで、毎日がとても楽しい





他の人様にとって役立つような物なのかどうかは、知らない





行き過ぎた迷惑だけにはなりたくはないが














2014年2月19日水曜日

基本としては



つまらんから移動する







今いる視点で物事を見ていてもちっともつまらんから移動する






つまるために生きる、それ以外に目的は無い






楽しむために生きる






その先のことは考えられない






家族や仲間や恋人のことだって






生きている間に培った関係、というのが前提にあるので






その先、究極に言うと死んだ先にも変わらずその前提、関係性があるかどうか、はたまた意識自体も続いて行くのかどうか、確かめようも無い







確かめようも無い事にはそこまで時間をかけても仕様が無い






だが現代の人間は「わからない」ままにいることを非常に苦手とする体質を持っていると思う






そういった意味で、予想出来ない未来に思いを馳せて、分からないなりに自分の希望や理想を持つのは良い、自分の愛や情けを支えるために人を想いつづける分にはいい







ただそれが世の中の全てに当てはまると盲信して、他人に押し付けようとする全ての原理主義はやはり俺の好みではない







思いやりは相手を慮る事が最低限基本のオペレーションであって






押し付けになった瞬間にただの強制に堕す













2014年2月18日火曜日

くけけけ、と



俺は笑う癖がある








昔から周りの人間には「悪魔のような笑い方」と言われたりする








正月に実家に帰省した際、弟と肩を並べて飲んではあれこれ話した








毎年ちょくちょく、折には会っていたのに全然気付かなかったが、実は弟も全く俺と同じ笑い方をしているのだということに、その時ふと気付いた








それは紛れも無く俺の家の血、というより他ないだろうが、血、とは必ずしも遺伝やDNAの働きかけのみを指す言葉ではない







自己は環境や状況によって抽象的に、しかも連続的に変化しながら形作られる








俺や弟がああいう笑い方に至ったには、親父方の陽気な文化の影響が強いと推察する









何故なら親父の実家の人間も、似たように同じ笑い方をしていたからである







笑い、とはとても不思議なもので、何が人にとって笑いをもたらすのかよくわからない






自分が笑う時というのは、いつも一瞬のうちに心を奪われて笑っているので、生活の中にふと立ち止まって、笑いとは何かなどと真面目に考えることもないが







なぜ予測してなかったような展開が自分に「快」をもたらして、"笑い"が起きるのか







なぜそもそもそれが「快」なのか






興味深いし、そもそもそこには根源に自我が絡んでいると思うと、そこから考えが止まらなくなるからまた面白い











2014年2月13日木曜日

学ぶ、という言葉は



始まりは”真似ぶ”という言葉から








真似をする、自らを下げて吸収するということは自我の強い人には向かない






"学ぶだけで考えなければ深い理解にはほど遠く、考えるだけで学ばなければ空想に過ぎずあやうい"






孔子ですね





知識ばかりを集めても行動に起こす勇気がなければそれは無いのと同じ、というところに似てる






結局はアウトプットとして行動が伴わないとねー













2014年2月10日月曜日

じんせいて人に




一度余剰に与えて、それから少しづつ、自由は残しながら、奪う








だから本当に自分の望んだこと以外、あれもこれもとは出来なくなっていきますね





だからこそ、ある意味ではその中に自分を発見するのかもしれない






自分がどういう人間なのかを、自分の行いの中に見つけることができるのかもしれない






そういう意味であの言葉を俺に言ってくれたのかもしれない、養老先生は






あとになって、今更、ふとそう思った









おめでとう友達よ



9月にカナダ行きが決定

春近いな






雪の日が過ぎてまだ少しなのにもう近所は春の日差し










春は良いですね、また色々と動き出そうとしてる









達観に近い心境で生きることは出来る、ある程度世間を覗いたり、ある程度距離感を決め込めば、そういう心境を保持して生活する事はできる









でも、あくまで「出来る」であって、それが生活の「目的」になってしまうと、あまり「生きる」ということの本質的な意味を自分の体感としては留めておけなくなるんじゃないか









もっと分かりやすく言えば、生きてる実感が湧かなくなるんではないか










自分の外との関係性の中に、流動的に変化しながら関係性を持つ自分というものを成り立たせられなければ、呼吸してようが寝食してようが、自分が生きてることをどうやって認識出来るのか、というか









ということは結局、「悩め苦しめ=生きてる実感なんだから甘んじてお受けなさい」という視点もある









それが嫌ならそれこそ達観して、関係性を断てばいい、誰にも止める権利もない









自分のケツは自分で拭く、やると決めた以上は人のせいにしないで楽しくやる








こういう思考が性に合ってる、という事を、年を重ねて身に染みて分かってきたような気になる







だがしかしそういう思い込みがまたふとした瞬間に覆されて、自分という概念がまた大きく変容していく可能性も無限にある事も同時に思い出す










万物は流転し続けて、春がまた来る

















雪でした東京 2014.2.9~10















2014年2月5日水曜日

もともと言葉でないものを




言葉にするって事がどれだけ難しい作業か






体感や感覚を少しの微妙なずれも出さずにぴしりと表現するのは難しい






乱暴な着地をすれば、自分の体感では捉えられているんだからもうそれだけでいいじゃねえかっていうこともできるんだけど





それだと表現として成り立たない







ただやはり、体感だけは手放しちゃいけない






これがそもそも表現する根拠なのだから